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「妻との別れ」を書き終えて

発病から葬儀に至るまでの1年半を書き終えました。

この後、私にはうつ病発症という大きな出来事があるのですが、それこそ当人以外は理解できない世界になってしまうので、書くのは止めておきます。



「妻との別れ」を書く契機は、私と彼女との交際に否定的なコメントが少なからずあったことへの反論の意味でした。


奥さんは泣いている、彼女は淫乱…等々。


私たち夫婦がどのように過ごしてきたのか、どんな関係だったのか、どんな気持ちだったのかも知らずして、妻や彼女について、さも知ったように意見されることがたまりませんでした。


当時を思い起こし書き綴ることは辛い作業でした。何度も止めようと思いましたし、なぜこんなことをしているのか疑問にも思いました。



ただ、この項を書くことによって、同じ立場にある方々からコメントをいただくようになり、私の中に使命感のような感情が生まれました。



死別者には恋愛は許されないのでしょうか?

一生悲嘆のプロセスを繰り返さなければならないのでしょうか?

死別であるか否かを問わず、夫婦の在り方は千差万別で、その詳細は当人以外は知り得ません。

相手の事情も知らずに非難するのは無責任すぎませんかね?


再考をお願いし、妻との別れの件については、これで筆を置きたいと思います。




妻の遺書

死後、妻の遺品を片付けていたら、私宛ての遺書が出てきた。

便箋に書かれた手紙ではなく、以前、私が妻に海外旅行のお土産で買ってきた大きなノートの最初のページにそれは書かれており、後のページは白紙だった。



『おーちゃんへ


そりゃ、私がいなくなって寂しいだろうけど、


おーちゃんにはおーちゃんの人生がある。


私のことは忘れなくていいから、


自分の幸せを見つけて、

タバコを止めて、

毎日少しは運動して、

長生きしてください』




最後の入院よりも前に、既に「自分はもう長くない」と悟った妻が、もしもの際に備えて書き残したものだろう。



死への恐怖に見舞われるなか、自分のことよりも、遺される私のことを心配してくれた妻の優しさ、書き記している時の心情を思うと、涙が出た。




妻は本当に愛情の深い人だった。





妻との別れ (Epilogue)

テレビドラマなら前回で終わりだが、現実はそうはいかない。


確かに妻の人生は幕を閉じたが、遺された家族には新たな幕のスタートとなる。


妻が逝った瞬間、私は喪主になった。

つまり、何日後かに行なう通夜と葬儀の責任者となった訳である。

そんなことまで考えていなかったから…、何をしていいか分からないから…、といって先送りすることはできない。

限られた時間の中でやらなければならないのである。


もっとも哀しく、もっとも寂しいはずの人間がそういった立場に追い込まれる。

臨終とはそういう場面であった。


妻が逝った際、私は泣かなかったと思う。

家族皆が泣いていたからなのか、自分の身を守るために心を閉ざしたのか分からないが、泣かなかったと思う。



看護士が遺体を自宅に搬送する業者を紹介してくれる。

看護士たちの手で妻はきれいにされ、葬儀会社の車で自宅に運ばれる。


妻の亡骸は客間に寝かされ、私はこの後、しなければならないことを葬儀会社の人から教えられるとともに、通夜と告別式の打ち合わせを行なった。


転勤族だった我が家にとっての最大の問題は“お寺”だったが、知り合いの方の紹介を受け、すぐに会ってもらえ、通夜と告別式にも出てもらえることになった。

妻の友人・知人への連絡、次々と訪れる弔問客の応対、自治会の方たちや葬儀会社と打ち合わせ、妻の両親と義妹家族、私の妹家族の宿泊手配、出迎え。


手配に追われ、お通夜までは、あっという間だった。




妻が家に戻ってきた夜、私は、妻の両親と一緒に、妻のいる客間で寝た。

お寺の手配も終わり、張り詰めていた糸が切れたのだろう、妻が逝ってから初めて泣いた。布団の中で号泣した。

あまりの激しさに、妻の両親が驚き、私を慰めてくれた。

子どもに先立たれた虚しさは相当大きいはずなのに、私を慰めてくれることが申し訳なかった。妻を死なせてしまったことが申し訳なかった。



翌日、休んでよいという私たちの声を振り切り、子どもたちは二人とも学校に行った。

娘は、担任に、母が死んだことを皆に言わないようお願いしていた。

理由を尋ねると「いちいち説明するのが煩わしいから」と答えたが、理由はそれだけではないと思う。



また、娘は、昔からお世話になっている牧師さんが弔問に訪れた際、「我慢しなくていいんだよ」と言って抱きしめようとするのを身を反らして拒んだ。

周囲の人は「我慢して可哀想」と言ったが、可哀想ではなかった。

娘には娘なりの哀しみの昇華方法を取っていただけだった。




その晩、息子が、妻と一緒に寝たいと申し出た。

私は場所を息子に譲った。


息子は一晩泣き明かした。

しかし、通夜でも告別式でもまったく泣かなかった。

この晩泣き明かすことで、彼は母親への別離を終えた。




通夜と告別式には驚くほど多くの人が訪れた。

社交的ではなく、どちらかというと人見知りをする、パートタイムのナースにしては考えられない数だった。

妻が学校で読み聞かせのボランティアをしていたこともあるが、これだけ多くの人が参列してくれた理由は他にあった。

裏表のない誠実な人柄に惹かれた方たちが、妻の死を悼み、見送りたいと集まってくれたのだった。





妻の人柄を表すエピソードがある。


あるとき、我が家の近くで交通事故があった。

急ブレーキの直後、ドーンという音がした。

私、妻、父の3人が現場に駆けつけると、女性が車にはねられていた。

私と父、現場にいた他の男性数人で車を路肩に移動させた。


現場にいた他の人々が呆然とするなか、妻は迷うことなく、はねられた女性に駆け寄り、人工呼吸を行なった。

全身血だらけになりながら、救急車が到着するまで、必死に人工呼吸を続けた。

残念なことに、結局その女性は亡くなったが、私は、改めて妻の愛情の深さを思い知らされた。


妻は、ナースだったから即座に人工呼吸を行なったのではない。

「絶対に助けたい!」その思いが、瞬間、妻の理性を吹き飛ばし、鬼気迫る人工呼吸に及ばせたのである。

妻は本当に底知れぬほど愛情の深い人だった。






多くの人に見送られ、妻と私たちは斎場を後にした。



焼き場の蓋が閉められるとき、耐え切れず、私は崩れた。

もう絶対に戻って来れない、本当のお別れのときだった。



こうして、妻は骨になった…



妻との別れ (最終回)

2005年5月12日 早朝


呼吸も乱れ始め、呼吸器とモニターに繋がれた。

「最後に会わせたい方がいたら、すぐに呼んでください」

ナースに言われ、自宅に電話を入れる。



すぐに父母と子供たちがやって来る。


マスクの下で苦しそうに息をし、やっとの思いで開けている目で子供たちを見て微笑む妻。

妻の手を握る子供たち。


それまで途切れがちだった意識は戻り、ちゃんと子供たちを認識している。



義母、母、父がそれぞれ交代で声をかける。


「あ……あと…」


おそらく「ありがとう」と言っているのだろう、義母、母、父に対しても、それぞれに残った力を振り絞って話しかける。



妻の体温が次第に下がっていくため、義母と母が一生懸命に体をさすり、体温を上げようとする。




ふと妻の顔を見ると、目が半分開いたままで動かない。

ナースセンターに行き、その旨を伝える。



ナースたちは即座に病室に向かい、妻の様子を確認する。




ほどなくして、廊下に出るよう婦長に言われる。


「ご主人から家族の皆さんにお別れを伝えてあげてください」




病室の戸口で、子供たちに向かって言う。


「お別れだ」




「うそっ、やだよ、やだよ、やだよーっ!!」

こんなにやつれ果てた姿になっていたのに、この瞬間まで、母親が死ぬとは思っていなかったのだろう、それまで感情を露にしなかった娘が爆発する。




「ママーっ! ママーっ! ママーっ!」

生まれてからずっと妻にべったりで、妻が大好きだった息子が、妻にすがって号泣する。




義母、母も、妻の名前を何度も呼び、死ぬな、死なないで と繰り返す。




家族の呼びかけに答えることはなく、ついに妻は帰らぬ人となった。


2005年5月12日、13回目の結婚記念日からちょうど2週間後のことだった。


妻との別れ (4)

実家から妻の両親と妹が駆け付けてきた。

状況を説明すると、義母が付き添うことになり、準備を整えるためにいったん戻り、2日後に出直してくることになった。

こうして、義母との2人体制での看病が始まった。



義母は私に気を遣ってくれて、私は病室の椅子で夜を過ごし、義母は誰もいない休憩スペースで寝た。

私は午前中は自宅に戻ってシャワーを浴び、必要なものを揃え、お昼ころ病院に戻るという毎日を送った。

義母は、病院スタッフの配慮で、入浴設備を使わせてもらえた。



鎮痛剤(モルヒネ)の投与量が増えたためか、妻を襲う大きな痛みの頻度は徐々に落ちていった。

その代わり、1日のうち寝ている時間も増えていった。





若くなく、高血圧を患う義母にとって、連日の看病は体力的にキツく、午後には昼寝の時間を取った。


妻と二人だけのある時、妻が私に言った。


「良い女性がいたら、再婚してもいいからね」


遺される私のことを心配しての妻の思いやりであることはわかったが、肯定するわけにはいかなかった。

それに、そんなことはまったく考えられなかった。


「なに言ってるの? 一緒に家に帰るんだよ」


怒る気はまったくなかったが、妻を諭すため、少しムッとした口調で言った。


「そうだよね。帰るんだよね」


そう答えたが、もう家には帰れないことを妻はわかっていた。

わかっていたが、そう答えなければ、私が辛い思いをすることを妻は知っていた。

妻は本当に優しい、愛情の深い人だった。





病状は悪化していった。

食事はほとんど食べられなくなり、点滴を受けるようになった。

1日のうち、意識があり、会話できる時間はどんどん少なくなっていった。




ある日、ベッドの上で妻を強く抱きしめ、号泣した。

起きてはいるが意識がない状態の妻があまりにも可哀想だった。

大好きな子供たちを遺していかなければならない妻が不憫だった。



妻の意識がある時だったら、気持ちが張り詰めていて、泣くことはなかったろうが、意識のない妻の姿を見て我慢の糸が切れた。

しかし、私が病院で号泣したのもこれが最初で最後だった。





亡くなる3日くらい前から妻の様子が変わった。


これまで出会った人、お世話になった人、数多くの人たちの名前を挙げ、それぞれに感謝の意を表した。

表情もうってかわって穏やかになった。



母親が子供を遺して逝くなど、死んでも死にきれないはずだから、私たちには信じられない光景だった。


私には、妻が死を目前にして“悟り”を得たのではないか としか思えなかった。





主治医からは「呼吸や脈が乱れてきたら、その先は長くない」と言われていた。

妻の脈が乱れ始めたのは亡くなる2日前の夜だった。


タクシーを飛ばし、祖父母に連れられ、急遽子供たちが病室に呼ばれた。


幸い、容態は安定し、意識も普通で、妻は子供たちの顔に触りながら言葉をかけた。


子供たちは妻が助からないことを知らなかったので、知る由もなかったが、

これが、妻から子供たちへの“お別れ”であった。




(最終回)に続く

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