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死別者の心理(3) -死別者と恋愛すべきでない-

「死別者と恋愛すべきではない」

という声をよく聞きます。



その理由は、

1.嫌いになって別れた訳ではないから、亡きパートナーへの想いは一生残る

  ⇒『あなただけを見てくれる日は一生来ない』 


2.亡きパートナーと比較される

  ⇒『逐次そんなことされてたらストレスになってしょうがない』


3.しかも、亡きパートナーは良い思い出しか残らないので、絶対に勝てない

  ⇒『一生二番手で我慢するのはゴメン』


4.亡きパートナーの身代わりにされる

  ⇒『私には私の人格がある。人形じゃない!』 


といったところでしょう。



さて、ここで問題です。

このような意見を出されている方は死別経験者なのでしょうか?

答えは「否」です。

死別を経験されていない方が憶測で書かれているので、信憑性があるとは言えません。


という訳で、ご参考までに、死別経験者であるBrenneckesはどうなのか?ということをお話しします。



まず“亡きパートナーへの想い”ですが、これは消えることはないと思います。

しかし、だからと言って新しいパートナーである理緒さんを見ていない訳ではありません。



次に“亡きパートナーとの比較”ですが、妻と理緒さんはまったく別の人間ですから、比較することはありません。



続いて“亡きパートナーは良い思い出しか残らない”のも事実ですが、私は理緒さんのご主人に対する想いも、ご主人自身も尊重していますので、勝ちたいと思ったことはありませんし、勝った負けたという考えに至ったこともありません。



最後に“亡きパートナーの身代わりにされる”ですが、私は妻の代わりになる相手を探していて理緒さんに白羽の矢を立てた訳ではなく、恋愛感情の伴わないお付き合いから現在の関係に至ったので、妻の身代わりにしている訳がありません。



という訳で、上記4点は当てはまらず、まったく障害にもなっていないのですが、皆さんはいかにお考えでしょうか?



死別者の心理(2)-千差万別-

妻に逝かれる前にも、いくつか死別は経験してきた。


中でもいちばん大きかったのは、中学・高校時代ずっとつるんでいた親友を大学時代に失ったことだった。


葬儀の際、多くの人がすすり泣く中、私は送辞を読んだ。

しかし、何故か私は泣かなかった、というか、泣けなかった。

『彼の死を実感できない』と思う一方で、『自分は、人の死に感情を左右されない冷淡な人間ではないのか?』という思いを持つようになった。



その後、母方の祖母、父方の祖母、伯父の葬儀でも泣くことはなく、ますますその思いは強くなった。




そんな私も、妻を亡くした際には泣いた。

逝った直後に泣くことはなかったが、弔問客に事情を説明する度に涙が溢れ、その夜は布団の中で号泣した。


葬儀で棺に釘が打たれる際、焼き場の竈が閉まる際には崩れ落ちた。

その後も1年以上は妻を思い出す度に涙した。



涙の大半は、自分のためではなく、妻のために流したものだった。

大好きな子どもたちを遺して逝った妻の心情を思うと涙が止まらなかった。

そして、もう妻とは会えないと思うと、寂しくて仕方なかった。




葬儀の後、妻のことで娘が泣くことはなかった。

最後の1年半、妻は入院することが多かったので、娘の心の中では、妻はまだ入院しているらしい。そうやって自分の気持の整理を付けているのだ。




一方の息子は、授業中に突然泣き出す出来事があったうえ、中学2年時には無気力状態となり1年間を棒に振った。

しかし、高校入試を控え、ようやく自力で立ち直る。

息子が大きく変わった点は、宗教をまったく信じなくなったこと。

『神や仏がいるなら、なぜ母を殺した? 母を救えなかった神や仏を信仰するなどナンセンス!』

息子の言動を見ていると、彼がそんな風に思っているように感じる。




私が失ったのは“妻”であり、“母親”ではない。

ゆえに“母親を失った子どもの気持”は分かってあげられず、父親でありながらも適切な慰めや激励はできなかった。




前回述べた『死別の哀しみは千差万別で、人によって異なる』というのは、こういうことなのだと思う。



死別者の心理(1)-誤解を避けるために-

このBlogのテーマは大きく分けて二つある。

一つは“40代の恋愛”

もう一つは“死別者の恋愛”


何を目的にこのBlogを訪れられたかは、人によって異なるだろう。

上記テーマのどちらかもしれないし、それ以外の要素であるシングルファーザーや営みの描写かもしれない。

今回は、ブログのテーマとしてはあまり多くない“死別者の恋愛”、その中でも“死別者の心理”について、自分の経験を基に書いてみたい。




私の場合、死別に伴う心理状態の変化は、大きく“初期”“認識期”“回復期”の3段階に分けられた。


“初期”はパートナーを失った直後から始まり、2年ほど続いた、もっとも始末に負えない時期である。

なぜなら、どんなアドバイスを聞いても受け入れられない、受け入れる心の余裕がない状態でありながら、それでいて誰かに話すことで哀しみを和らげたいという心理的な矛盾を孕んだ時期だからである。

周囲の人もどう声をかけてよいか分からす、扱いに困る。


ゆえに、死別者のほうも、やたらな人には話しかけられず、相手を選ぶことになる。
(話しかけられた方が迷惑することは十分に分かっているので…)



さて、ここからが本題。


付き合っているお相手がこの段階の場合、大切なのは『話を聞いてあげる』こと。

アドバイスや激励はしようとせず、ひたすら聞き役に徹する。

死別経験者であったとしても、その人に合ったアドバイスや激励をすることは極めて難しいし、非経験者であればなおさら。

的確でないアドバイスや激励は、逆に相手の感情を逆なでしたり、誤解や気まずい雰囲気を生む危険性すらある。(アドバイスを受け入れられるようになるのは次の段階)

それに、先に述べたように、本人がそもそもアドバイスを求めておらず、単に聞いてほしいと思っていることもある。


私がこの段階から脱せた要因は、結局は“時間”だった。

三回忌を迎える頃、ようやく、自分は幸せだったと思えるようになり、周囲の人、本やホームページに書かれている言葉が心に響くようになった。



死別者と恋愛をされている方、これから恋愛をしようという方、できたら上記を頭の片隅に置いて接してあげてほしい。

そうすれば、不幸な誤解や感情的なすれ違いは避けられるのではないかと思う。



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彼女との約束

彼女と約束していることが二つある。


一つは、死ぬまでずっと一緒にいること。


もう一つは、私のほうが長生きし、彼女の最期を看取ること。


私たちはパートナーを失った際、『二度と死別の悲しみ、辛さを味わいたくない。だから絶対に再婚しない』と固く心に決めている。

だから、本来は恋愛もすべきではないのだが、その決意を私が崩した。


だから、二度目の死別の悲しみを引き受けるのは私でなければならない。

彼女を遺し、もう一度あの辛さに曝すことはできない。



妻を失ったことによる欝病から何とか這い上がろうとしていた際、私は死別者向けの書物やWebサイトを読みあさった。


その中で見つけた心を打つ言葉の一つが以下のようなものだった。


『あなたがこの悲しみを引き受けることにより、その人はこのつらい悲しみを悲しむことがなかったのです』


人は、必ずどちらかが先に旅立ち、どちらかが遺される。
遺された悲しみを背負うのは一人。
自分が遺されることで、愛する人にこの悲しみを味あわせずに済んだ。

という意味である。



だから、私は彼女よりも長生きしなければならない…。(^-^)



「最後は奥さんの元に…」

「私と付き合うことが、あなたにとって負担になってない?」

営みからの帰り道、彼女が尋ねてきた。


「そんなことないよ」

彼女の不安を解くため、否定する私。


「仕事で疲れてるのに、せっかくの休みを使わせたり、お金も使わせて…。私と付き合うことがマイナスになってないか心配」


「理緒さんと逢うことがどれくらい私にとって精神衛生上プラスになっていることか…。

あなたと逢うことを楽しみにしているから頑張れるんだよ。

正直、嫁さんに死なれてからずっと、子どもたちが結婚したら嫁さんの元に逝かせてもらおうと思ってた。子どもたちには悪いけど、そこまでは我慢して生きるから許してね…と。

そう思わなくなったのは、理緒さんのおかげだよ…」

嘘偽りのない気持を彼女に伝える。


「私もあなたと同じ……。

でも、最後は奥さんの元に帰ってあげてね…」


彼女の優しい言葉に胸が詰まる。

「ありがとう…。理緒さんも旦那さんのところに帰ってあげてね…。

あなたと出逢えて本当に良かった。

ありがとう」



彼女の優しさが身に染みた出来事だった。



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