妻との別れ (4)
実家から妻の両親と妹が駆け付けてきた。
状況を説明すると、義母が付き添うことになり、準備を整えるためにいったん戻り、2日後に出直してくることになった。
こうして、義母との2人体制での看病が始まった。
義母は私に気を遣ってくれて、私は病室の椅子で夜を過ごし、義母は誰もいない休憩スペースで寝た。
私は午前中は自宅に戻ってシャワーを浴び、必要なものを揃え、お昼ころ病院に戻るという毎日を送った。
義母は、病院スタッフの配慮で、入浴設備を使わせてもらえた。
鎮痛剤(モルヒネ)の投与量が増えたためか、妻を襲う大きな痛みの頻度は徐々に落ちていった。
その代わり、1日のうち寝ている時間も増えていった。
若くなく、高血圧を患う義母にとって、連日の看病は体力的にキツく、午後には昼寝の時間を取った。
妻と二人だけのある時、妻が私に言った。
「良い女性がいたら、再婚してもいいからね」
遺される私のことを心配しての妻の思いやりであることはわかったが、肯定するわけにはいかなかった。
それに、そんなことはまったく考えられなかった。
「なに言ってるの? 一緒に家に帰るんだよ」
怒る気はまったくなかったが、妻を諭すため、少しムッとした口調で言った。
「そうだよね。帰るんだよね」
そう答えたが、もう家には帰れないことを妻はわかっていた。
わかっていたが、そう答えなければ、私が辛い思いをすることを妻は知っていた。
妻は本当に優しい、愛情の深い人だった。
病状は悪化していった。
食事はほとんど食べられなくなり、点滴を受けるようになった。
1日のうち、意識があり、会話できる時間はどんどん少なくなっていった。
ある日、ベッドの上で妻を強く抱きしめ、号泣した。
起きてはいるが意識がない状態の妻があまりにも可哀想だった。
大好きな子供たちを遺していかなければならない妻が不憫だった。
妻の意識がある時だったら、気持ちが張り詰めていて、泣くことはなかったろうが、意識のない妻の姿を見て我慢の糸が切れた。
しかし、私が病院で号泣したのもこれが最初で最後だった。
亡くなる3日くらい前から妻の様子が変わった。
これまで出会った人、お世話になった人、数多くの人たちの名前を挙げ、それぞれに感謝の意を表した。
表情もうってかわって穏やかになった。
母親が子供を遺して逝くなど、死んでも死にきれないはずだから、私たちには信じられない光景だった。
私には、妻が死を目前にして“悟り”を得たのではないか としか思えなかった。
主治医からは「呼吸や脈が乱れてきたら、その先は長くない」と言われていた。
妻の脈が乱れ始めたのは亡くなる2日前の夜だった。
タクシーを飛ばし、祖父母に連れられ、急遽子供たちが病室に呼ばれた。
幸い、容態は安定し、意識も普通で、妻は子供たちの顔に触りながら言葉をかけた。
子供たちは妻が助からないことを知らなかったので、知る由もなかったが、
これが、妻から子供たちへの“お別れ”であった。
(最終回)に続く
状況を説明すると、義母が付き添うことになり、準備を整えるためにいったん戻り、2日後に出直してくることになった。
こうして、義母との2人体制での看病が始まった。
義母は私に気を遣ってくれて、私は病室の椅子で夜を過ごし、義母は誰もいない休憩スペースで寝た。
私は午前中は自宅に戻ってシャワーを浴び、必要なものを揃え、お昼ころ病院に戻るという毎日を送った。
義母は、病院スタッフの配慮で、入浴設備を使わせてもらえた。
鎮痛剤(モルヒネ)の投与量が増えたためか、妻を襲う大きな痛みの頻度は徐々に落ちていった。
その代わり、1日のうち寝ている時間も増えていった。
若くなく、高血圧を患う義母にとって、連日の看病は体力的にキツく、午後には昼寝の時間を取った。
妻と二人だけのある時、妻が私に言った。
「良い女性がいたら、再婚してもいいからね」
遺される私のことを心配しての妻の思いやりであることはわかったが、肯定するわけにはいかなかった。
それに、そんなことはまったく考えられなかった。
「なに言ってるの? 一緒に家に帰るんだよ」
怒る気はまったくなかったが、妻を諭すため、少しムッとした口調で言った。
「そうだよね。帰るんだよね」
そう答えたが、もう家には帰れないことを妻はわかっていた。
わかっていたが、そう答えなければ、私が辛い思いをすることを妻は知っていた。
妻は本当に優しい、愛情の深い人だった。
病状は悪化していった。
食事はほとんど食べられなくなり、点滴を受けるようになった。
1日のうち、意識があり、会話できる時間はどんどん少なくなっていった。
ある日、ベッドの上で妻を強く抱きしめ、号泣した。
起きてはいるが意識がない状態の妻があまりにも可哀想だった。
大好きな子供たちを遺していかなければならない妻が不憫だった。
妻の意識がある時だったら、気持ちが張り詰めていて、泣くことはなかったろうが、意識のない妻の姿を見て我慢の糸が切れた。
しかし、私が病院で号泣したのもこれが最初で最後だった。
亡くなる3日くらい前から妻の様子が変わった。
これまで出会った人、お世話になった人、数多くの人たちの名前を挙げ、それぞれに感謝の意を表した。
表情もうってかわって穏やかになった。
母親が子供を遺して逝くなど、死んでも死にきれないはずだから、私たちには信じられない光景だった。
私には、妻が死を目前にして“悟り”を得たのではないか としか思えなかった。
主治医からは「呼吸や脈が乱れてきたら、その先は長くない」と言われていた。
妻の脈が乱れ始めたのは亡くなる2日前の夜だった。
タクシーを飛ばし、祖父母に連れられ、急遽子供たちが病室に呼ばれた。
幸い、容態は安定し、意識も普通で、妻は子供たちの顔に触りながら言葉をかけた。
子供たちは妻が助からないことを知らなかったので、知る由もなかったが、
これが、妻から子供たちへの“お別れ”であった。
(最終回)に続く