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妻との別れ (3)

久々に出社すると、会社が事情を考慮し、最後までそばにいてやりなさいと、1ヶ月間の休職となった。

人を大切にする社長らしい、思いやりのある、ありがたい配慮だった。

仕事の引継ぎを済ませ、午後には病院に戻った。



病院では、妻の痛がり方があまりに激しく、他の入院患者さんに動揺を与えるため、大部屋から個室に移ってもらえないかと打診を受けた。

大部屋は面会終了時間までしかいられないが、個室は泊ることができるため、こちらとしてはありがたい申し出だった。

すぐに個室に移った。



相変わらずひどい痛みが妻を2~5時間おきに襲った。

いきなり大量の鎮痛剤(モルヒネ)を投与する訳にはいかないため、痛みに鎮痛剤が追いつかない状況だったのだろう。この日と翌日がもっとも症状がひどかった。

正直、あと2~3日しかもたないのではないかと本気で思った。


妻の実家に電話し、できるだけ早く来てくれるように頼んだ。

間に合わなくなることを恐れた。


看護学校時代からの親友二人にも電話した。

無理は承知だったが、最後に、生きているうちに会ってほしかった。



個室に移ったので、本当は泊りたかったが、子供たちに事情も話さず、了解も得ずにいきなり泊る訳にはいかず、この日も帰宅した。






2004年4月29日

両親がオランダから帰国し、子供たちを見てもらえるようになったため、この日から病院で1日過ごし、泊るようにもなった。



鎮痛剤のせいか、妻は眠っていることが多かったが、起きているときには意識はまだハッキリしていた。

というのも、日に日に痛みが増すため、鎮痛剤の投与量も日に日に増えていき、意識も朦朧となっていく。

痛みから逃してあげるためには仕方ないことだったが、この頃はまだ普通の状態でいられた。


私はベッド脇の椅子に座り、妻の寝顔を見るか、本を読むかしていた。


妻が起きている時には、話をした。

病気のこと、子供たちのこと、休みが続く私の仕事についても心配してくれた。



この日は13回目の結婚記念日だった。


「一生独身でいるつもりだったので、あなたと出会え、結婚できたことは幸運だった。

良い子どもたちにも恵まれたし、幸せな家庭生活を送ることができた。13年間ありがとう」


ベッドの上で妻を抱きしめ、私は感謝の意を表した。

妻もまったく同じ言葉を私に返してくれた。


「私もあなたと結婚できて幸せだった。今までありがとう」と。



夫婦としての最後の挨拶だった。



主治医も私も、もう助からないこと、この入院が最後になること、あと一ヶ月ももたないことなどは、もちろん妻に伝えていない。


しかし、妻の職業はナース。自分が現在どんな薬を投与されているかは分かる。

しかも、闘病中、何とか助かりたい一心で、がん関係の本を50冊近く購入し、読み尽くしている。

そして、脳に転移したことは、脳外科医の不用意な一言で伝わってしまった。

とどめに、私が会社に行かず、ずっと付き添っている。


素人目に見ても、自分がもう長くはないことは分かっているハズである。



しかし「妻が気付いている」ことを私が知ったら、私が大いに哀しむことを妻は知っている。

私のことをおもいやり、妻は気付かないフリをしていた。

妻はそういう人だった。底知れぬほど深い愛情の持ち主だった。



私も同様だった。

「妻が気付いていること」に気付かないフリをした。

妻の思いやりを無にしたくなかった。妻に哀しい思いをさせたくなかった。




この先、妻の意識が無くなっていくのは互いに分かっていた。

だから、この日、13回目の結婚記念日に、互いに気付いていないフリをしつつ、感謝の意を述べ合い、“夫婦としての別れの挨拶”をすませた。



その(4)に続く

妻との別れ (2)

珍しく仕事から早く帰ると、中2の娘が夕食の用意をしていた。

妻の具合が悪いらしい。

すぐに様子を見に行くと、ひどく頭痛がするとのこと。痛がり方が尋常ではなかったため、本人は嫌がったが、無理やり病院に連れて行く。

しかし、当直医の専門外ということで、翌日婦人科を受診するよう言われる。


翌日婦人科を受診し直すも、主治医が不在だったため、ここでも原因が分からず、さらに翌日、今度は主治医の診察を受ける。

ところが、主治医にも原因は分からない。
とりあえず自宅療養で様子を見ることとなったが、帰りがけに念のためCTを撮る。

当初は検査結果を後日知らせてくれるという話だったが、もう一度主治医のところに行くよう技師に言われる。

壁には検査画像が貼られ、同席の脳外科医が「脳に転移している」と告げた。


「私、死にたくない!! 子供がこんなに可愛いのに!」


妻が泣き崩れる。


しかし、後にも先にも妻が取り乱したのはこの時だけ。本当に芯の強い人だった。


主治医がすぐに入院するよう話し始める。

家のことや入院準備を理由に先伸ばしにしようとする妻を押し切り、入院をお願いする。

パジャマや身の回り品を用意するため、いったん私だけが帰宅するはずだったが、私だけには任せられないと妻も付いてきた。



4度目になるので、妻は慣れた手つきで入院用の荷物を手早く整えたうえ、子供たち宛てに夕食のレシピとメッセージをしたためた。

≪再び入院すること、しばらく帰れないこと、ご飯をきちんと食べ、戸締まりをしっかりすること、元気でいること…。≫

これが子供たちへの最後の自筆メッセージとなった。



病院に戻り入院手続きを終え、その日は面会終了時間まで病室で過ごしてから家に戻った。


家では娘と息子が待っていたが、4度目ということで入院に慣れてしまったせいか、心配しているそぶりはあまりなく、ホッとする。




翌日も会社を休み、病院に行く。


病室に行く前、主治医に会うよう言われていた。

このパターンは、悪い宣告を受けるときのものだ。3度目にもなるとさすがに分かる。


主治医から

脳に転移したこと、
脳には抗がん剤が効かないこと、
ましてや放射線治療もできないこと、
今後は痛みを和らげる緩和ケアになること、
そして

“1ヶ月はもたないであろう”こと

を伝えられる。



全身への転移を告げられた際、この日が来ることを覚悟していたからだろう。

それに、この後すぐに妻の元へ行かなければいけない(=気付かれてはいけない)こともあり、宣告のショックから立ち直るまで、不思議とそれほどの時間はかからなかった。



病室に行く前、会社に電話を入れ、上司に事情を報告した。

とりあえず翌日出社し、今後のことについて協議することになった。



妻は食欲が無く、病院食を1、2割しか食べられなかった。

上半身を起こすことも難儀し、昨日ベッドに上がって以来、一度も降りられなくなった。


妻にはタイマー制御により一定間隔で痛み止めのモルヒネが投与されている。

それでも数時間おきに不定期で、泣き叫ぶほど大きな痛みが妻を襲い、そのたびに私はナースコールのボタンを押し、
ナースが大量のモルヒネを投与した。

妻が苦しんでいても何もできなかった。ただ背中をさすり、慰めることしかできなかった。



その日も面会終了時間まで病室で過ごし、帰宅した。


家に着く前、路肩に車を停め、遠方に住む妹に電話を入れた。

誰かに話さないとおかしくなりそうだった。

電話の向こうで妹も泣いた。

辛いだろうが、子供たちのためにも、妻のためにもがんばってと妹は激励してくれた。



こうして“妻の最後の17日間”の2日目が終わった。



(3)に続く

妻との別れ (1)

妻が異変に気付いたのは2002年11月のことだった。

自分で胸を触診し、しこりがあることに気付いた。

すぐに近くの総合病院で診察を受け、年内にも手術をという話になったが、術後の方針を巡り妻と主治医の意見が合わず、最終的に手術が行われたのは1月だった。

手術は無事終わり、患部も11ミリと心配していたほどの大きさではなく、これで一件落着と主治医も含めた皆が思った。



病院に通い、定期的に傷口の手当てを受けていたが、どうも傷口の様子がおかしいということで細胞診に回される。

患部が広がっていることが判明し、急遽全摘手術を実施、放射線治療を限界量まで集中的に行う。

毎日病院に通い、放射線治療を受けた後、抗がん剤の投与を受ける。


副作用から、髪は抜け落ち、肌は生気を失う。




全摘手術から半年後の2003年秋、ほとんど何も食べられない状態となり、緊急入院する。


体調不良の原因を、主治医も本人も、ホルモン治療の副作用と思っていたが、実際は違った。

がんが、脊髄、肋骨、骨盤に転移し、血中のカルシウム濃度が異常に上がったためだった。

主治医から、

「お気の毒ですが、6~7年は持たないでしょう。おそらく4~5年。早ければ1年ということもあります」

と宣告される。

また、全身に転移してしまったので、今後は“治療”ではなく、“延命”になることも聞かされた。

つまり“治らない”ということである。



主治医からの宣告で最もショックを受けたのが、この宣告だった。

なぜなら、この瞬間まで妻が死ぬことなどまったく考えていなかったから…。

宣告を聞きながら頭の中に浮かんだのは「あと4年しか一緒にいられない? 一緒に50代を過ごすことはできないんだ…」ということ。月並みな表現だが、目の前が真っ暗になった。


宣告は必ず妻の病室に行く前に受ける。いったん病室に行ってから呼び出しを受けると、何の話だったか妻に絶対尋ねられるからだ。

主治医は告知しないポリシーだったため、妻は自分がもう助からないことを知らない。

ただでさえ容態が悪い妻に絶対気付かれてはならない。その思いが私を立ち直らせ、病室では普通に振る舞うことができた。


その後、投薬で血中のカルシウム濃度は下がったものの、今度は白血球が激減する等して、結局、妻は4週間ほど入院した。




退院後、妻は抗がん剤投与を受け続けた。


休日はショップ巡りをしたり、昔よく二人がでしていたラーメン屋やパスタ屋の食べ歩きを再開した。


しかし、妻の容態は緩やかかつ確実に悪化していった。


調子が良い日は映画やカラオケに行ったり、子供たちと日帰り旅行に行ったりもしたが、1日のうちベッドで過ごす時間が長くなってきた。


そんな具合が悪いなか、妻はすっかり変わってしまった体型に合うよう、必死に身なりを整え、息子の中学入学式に参列した。


今から思えば『入学式までは!』という気持が妻を支えてきたのだろう。

この日を境に、妻が床で臥せることが急増する。


そして、問題の日、忘れもしない2004年4月23日がやって来た。


(2)に続く

ご質問にお答えします

拍手コメントでご質問をいただいたので、この場を借りてお答えしたいと思います。


このブログには妻についてはあまり触れていないので誤解されたかもしれませんが、私と妻は、世間一般から見れば、ものすご~く仲の良い夫婦だったと思いますし、私自身も自他ともに認める愛妻家でした。故に、妻が他界した際には鬱病となり、何度も自殺を考えました。子供たちがいなかったら、間違いなく自殺してました。


確かに妻との営みは年に10回くらいだったので、今の彼女との月2回ペースとは比べるべくもありませんが、これは、妻に対する愛情が低かったらではありません。


私が、以前は今よりもずっと帰宅時間は遅く、休日出勤も頻繁だったこと。
妻もナースというハードワークと家事・子育てを両立していたこと。
故に、互いに相手の疲れ具合を気遣い、なかなか営むタイミングが合わなかったことが一番の理由です。

と言うのも、匿名さんがお考えのように“居間だから手早く短時間に…”ということはなく、最低でも2時間、普通なら3時間はセックスに費やしていましたから、翌日が休みで、なおかつ二人とも疲れていない時ではないとできなかったんです。(家族全員が寝静まった零時頃に開始となるので)


それに、何度も書いてますが、妻は私にとって初めての女性で、セックスの手ほどきは妻から受けていますから、前戯が長いのも、優しく愛撫するのも、すべて妻の要求に応えることで身についたものです。

ですから、匿名さんがお考えのように、妻との性交よりも彼女との性交を念入りに行っている訳でもありません。


お分かりいただけないかもしれませんが、彼女ができても、未来永劫、私にとって妻が特別な存在であることは変わりないんですよ。


妻とのことは、このブログには合わないだろうし、読まれる方も心乱れる可能性があるので、敢えて触れずにいましたが、もしかしたら、折を見て書くかもしれません。


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